江戸時代、代々取手宿の名主と本陣を務めたのが、これまでも紹介した 染野家(そめのけ)です。染野家が水戸徳川家から本陣に指定されたのは、 貞享4(1687)年(じょうきょう)のことと、伝えられています。
それでは、この年に染野家が水戸徳川家から本陣に指定される何か重要な 出来事があったのでしょうか。時の水戸藩主は、黄門様でおなじみの 2代藩主徳川光圀でした。水戸藩主は他の大名と違い、参勤交代はなく、 藩主は江戸の藩邸にいるのを常としていました。
しかし初代頼房と2代光圀の時は、かなり頻繁に江戸と水戸の間を行き来 していました。
貞享4年3月、光圀は江戸から水戸に赴き(就藩といいます)、同年12月に 水戸から江戸に戻っています(帰府といいます)。この時に光圀の一行は 取手宿を通り、染野家を本陣としたことから、貞享4年が後世染野家の本陣 指定の年として、認識されるようになったと考えられます。
それでは、貞享4年以前には、光圀は取手を通行していなかったの でしょうか。光圀が取手を通ったことが、古文書から確認されるのは、 天和2(1682)年(てんな)10月の就藩の時です。さらにこの4年前、 延宝6(1678)年2月の帰府では、すでに光圀は取手を通っていたとの説も あります。
また天和2年以降は江戸と水戸との往復に際して、光圀は必ず取手を通る ようになったのでしょうか。
天和3年8月、光圀は水戸から江戸に戻りますが、この時は潮来から船に乗り、 布佐(千葉県我孫子市)で上陸していますので、取手は通っていません。 また元禄2(1689)年6月の江戸から水戸に赴く時は、布佐から船に乗り潮来 に至っていることから、やはり取手は通っていません。
以上から、光圀が取手を通行したのは、古文書から確実に確認できるのは 天和2年10月ですが、それ以前の延宝6年にも取手を通っているかもしれない、 また染野家が水戸徳川家から本陣に指定されたのが貞享4年としても、 それ以後必ず取手を通ったわけでもないことが、分かります。
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